急須

 彼の代名詞ともなっている急須。前載の土瓶とともに彼・村島順が研究に研究を重ねて作り出してきた形である。そこには越前焼特有の強く焼締められた土の景色が現われる。窯の最高到達温度は1300度を優に超えるといい、他の地域の土では耐え切れない高温焼成にもかかわらず、緋色と胡麻の景色が独特の質感を生み出している。また、この高温で焼締めた急須で入れるお茶は、その味において他の地域に見られる急須のそれとは格段の違いを感じさせる。
 お茶を入れる道具を中心に陶芸人生を歩んできた村島氏。彼の作り出す急須・土瓶は、他の追随を許さず、作れば売れる代物であった。そんな彼が作り出す、お茶に欠かせない道具ですら今の時代は・・・、人はペットボトルを持ち歩き、卓袱台はなくなり、家で急須に湯を注ぐ光景すら「昭和」といわれる時代になった。あらためて、だからこそ、見直したい。彼の急須には、こころがある。そして何より、やきものが本来内包している豊かさがある。
 今年(2010年)の11月に壺屋で初めての個展を予定している。ある意味、陶芸家生命を賭けて彼は挑んでくるであろう。土瓶・急須・宝瓶は言うに及ばず、湯のみ・酒のみ・・・。還暦を超え、さらに新たな一歩を踏み出そうとしている彼の陶芸家人生の第2幕が始まる。本当に大好きな「男」である。


土瓶 (径12.5)

村島順という焼き締めの急須・土瓶一筋の変わったオヤジが越前にいる。風貌は陶芸家のそれとはおおよそかけ離れた野人の体である。鮎釣りをこよなく愛し、鮎釣りが解禁になると作陶そっちのけで毎日近郊の川に出かけるという。 『鮎釣りをするために作陶をしている。』と誰を憚ることもなく言い切る。なのに釣った鮎は、年に1匹しか食さないという。愛すべき変人である。
あの土瓶を買ってから12年の歳月が流れた。あの土瓶と出会ったのは1993年11月28日小春日和の日曜日。神戸のとある陶芸店だった。そして別れは1995年1月17日そうあの大震災の日。たった1年あまりだが、思い出の一杯詰まった土瓶だった。何故こうも鮮明にあの土瓶のことを覚えているかというと、手元に一枚のDMが残っているからである。展覧会の初日、開店を待ちきれず会いに行ったあの日。毎日のようにお茶を楽しんだ日々。仕事に疲れあの土瓶に語りかけたあの日。そして震災直後、粉々になった様々な陶片の中にぽつりとあの土瓶の口がこっちを向いていた。そして何故だかその口だけになった陶片をポケットにしまった。時が流れ約1年後、購入した陶芸店を通じて村島氏に陶片をお返しした。未だに何故そんなことをしたのかわからない。ただ、返したかったのである。
そして時は流れて2003年。神戸で親しくお付き合いされていた陶芸店が前年に店じまいされたと噂を聞き、ふらっと越前の彼の窯場を訪れた。相も変わらず真っ黒に日焼けした顔で「よーお!」と迎えられた。性懲りもなく「あの土瓶みたいなのが欲しいんです。」と願い出た。「そうそうあんなやつは取れんで。」と京都訛の笑顔が返ってきた。それからまた2年の歳月が流れた。そして、ようやく土瓶が店にやってきた。倒炎式の焚き口が二つある厄介な窯で、これでもかと焼き締められた土瓶は、優しさを内包した生命力に満ちたものである。
彼の作り出す急須に惚れて20年。そして店を始めて7年。ようやく彼と歩み始める。


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