透きガラス紐巻デカンタ
(胴経12.8×高24.6)

 デカンタージュあるいはデカンテーションなどと呼ばれるワインでのお作法。ご節丁寧に、この項で知ったかぶりしてつらつらと解説するつもりは毛頭ない。また、生憎そこまでの知識も経験も有してはいない。
 日本の食文化にワインやウイスキーが本格的に入ってきて約100年といわれている。それまでの我が国は、一部地域的に脈々と受け継がれてきた焼酎を中心とした蒸留酒文化を有するものの、やはり醸造酒の王様日本酒が食文化の中心にあったことは異論をはさむ余地のないところであろう。また、その日本酒文化の歴史が、我が国のうつわの歴史にも多大なる影響を及ぼし続けている事実も今更つらつらと述べるべきものでもない。一方、洋酒と呼ばれる酒文化とともに入ってきた洋食文化の潮流は、我が国に和食器や洋食器などという言葉や区分を生み、ガラス器文化を花開かせた側面を有するという、実に興味深い側面を垣間見せる。
 こと酒器に限定して考えたときに、この興味深さは不思議へと変化する。つまり日本酒を中心と考えたとき、日本人は和食器と呼ばれるジャンルに徳利というある種のデカンタを有し、盃やぐい呑という酒器を有する。一方、洋酒という側面から日本人の好む酒器を俯瞰すると、多くの場合デカンタなどという代物は用いず、ガラス器という酒器のみで酒宴を楽しんでいる。この不思議さはどこから来るのであろうか、長年その答えを探し続けている店主であるが、今回掲載の御厨ガラスのデカンタを眺めていて、出口が少し見えてきた気がする。
 ワインボトルやウイスキーボトル、あるいは本来は製造元を特定するためのラベルに、洋風文化の香りを敏感に感じてとってきた我が国のここ100年の西欧化の美意識。本来日本人が持ち合わせている、次元の高いうつわ文化の美意識を目覚めさせる御厨デカンタの存在は頼もしい限りである。



ワイングラス




切子タンブラー
(高さ820×口径940×高台径600)

 薩摩切子に江戸切子。日本を代表するカットガラスとして現在も数多く製作されている。
 150年以上の歴史があると言われる江戸切子。その透明感と色を薄く被せ深く鮮明にしかも正確にカットした仕上がりは確かに美しい。そして途絶えることのなかった伝統工芸の歴史に裏打ちされた確かな技術の伝承による完成度は、芸術の域に達している作品をも生み出している。
 一方、二十七代斉興公が興し、二十八代斉彬公の時代に花開いたと言われている薩摩切子。藩の事業としての手厚い保護という特異性の中で、厚い色ガラスを被せたその切子は、グラデーションの美しさと切り込みの優しさから華麗な印象を与える。また、20数年間で途絶えたと言われている製作期間と、現存する作品数の希少さが相まって、幻の切子とも称されている。昭和60年に再興され、復元の域を超える作品が制作され始めているのも事実である。
 御厨は、そんな切子の世界に独自の感性による独自の切子を発表してきた。今回掲載のピーコックグリーンの切子タンブラーは、幕末薩摩切子(薩摩ビードロとも呼ばれている)に2点しか現存品がないと言われている緑色切子碗に勝るとも劣らない輝きと、カット面のグラデーションが見る者を虜にする。まさに江戸切子の技術と薩摩ビードロの味わいを併せ持つ、御厨切子の誕生を感じさせる作品である。
 切子の世界にたった一人で切り込んでいく御厨を見ていると、幕末の徳川体制を良しとせず、薩長にも甘さを感じ奔走した幕末の志士・坂本龍馬が思い浮かんだ。司馬遼太郎はその著書「竜馬がゆく」を、『しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。』と結んでいる。
 まさに御厨の今の姿は、世界観のある若者の姿そのものである。




金赤小鉢
(高さ630×口径920×高台径460)

 長崎県大村市。長崎空港を見下ろす高台に昨年(2000年)、300年近く前の調合比率による「長崎びいどろ」を現代に蘇らせたガラス工芸家が存在している。
 長崎の茂木海岸の白石(ハクセキ)を850℃以上で加熱し急冷を加え、何度も何度もひき臼で挽く。この石粉に金属鉛・硝石を加え1200℃以上で加熱し急冷を加え、さらに何度も挽く。こうして出来たガラス種を精煮(ホンニ)用の坩堝(ルツボ)に入れ、1300℃前後まで窯の温度を上げ、吹きにかかり、形成を施し完成を見たのである。ただ彼に言わせると復元の第一歩を踏み出したに過ぎないということ。一度絶えた技術・技法を蘇らせるというのは、継承していく難しさをはるかに凌ぐ難作業である。
 そんな、常に挑戦し続けている彼が作り出す「金赤」の作品は、実に味わい深い。セレンの赤に比べ深みのあるルビーのような赤で、薩摩切子に代表される銅赤に勝るとも劣らない、独特な上品さと鮮やかな発色をした作品である。
 現代日本ガラス工芸界では、アールヌーヴォー・アールデコに魅せられ装飾を中心とした世界に目を向けるガラス工芸家は多い。また、中途半端な手作り民芸ガラス風作品で満足しているガラス工芸家も氾濫している。そんな中、びいどろ・ぎやまんを真正面から見つめガラス本来が持つあたたかさの表現に情熱を注ぐ彼の作品に魅せられている。彼のようなガラス工芸家が存在する限り、日本特有のガラス文化が再び花開く日も遠くないように思う。
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